人生100年でゆっくりじっくり成長していこう!

「人生100年時代」を「急がなくてもゆっくりじっくりと成長できる時代」、「いつから始めても遅くない、いつからでも始められる時代」、「より多くの楽しく豊かなことを経験できる時代」と捉えて日々過ごしていける方法をみなさんと共有していきたいと思います。

愚痴は言わない方がいいのか?

自己啓発書などでは、愚痴は言わない方がいいとよく言われています。

 

「洞察力 本質を見抜く「眼力」の秘密 (PHP文庫) 」という書籍にも、三毒追放(怒り、妬み、愚痴の追放)として、自分の心の健康のためにも、愚痴は言わない方がいいと記載されています。

 

その一方で、心の中のネガティブな部分をずっと我慢してため込むのは良くないので、愚痴が言えなくなったら困る、という人もいます。日常生活の普通の人間関係や家族関係においては、こちらの方が一般的ではないかと思います。おおっぴらにそのようには言わないにしても、永遠と愚痴を言っていたり、それについて嫌がったりすると文句を言ったりする人も多いからです。

これらを総合して考えると、おそらく、「愚痴は言わない方がいいのだけど、愚痴を言いたくなるようなことが日常的に起こってしまうのだから、愚痴を言ってしまうのは仕方がない」というところだと思います。

 

私は、この「愚痴」の定義によって、いいのか悪いのかは異なってくると思います。

 

愚痴の意味が「自分は何も変わることなく、相手に対して、自己憐憫したり、自己正当化したりして、その相手から何かを求めること」である場合には、良くないと思います。

 

そうではなく、「相手の都合や事情を考え、相手の了解も得ながら、自分が進化・成長していくことを目的として、心の中にたまっているネガティブなことを吐き出させてもらうこと」である場合には、それほど悪いことではないと思います。

 

後者は、もはや「愚痴」という表現が適切ではないかもしれないです。「弱音を吐く」という表現が適切かもと思いましたが、弱音を吐く場合も前者のケースもあるので、当てはまりません。

 

日本語では、「前に進んでいくために、心の中のものを吐き出す」ということを表す適切な表現がないのです。

 

そのため、一括りに「愚痴」という言葉を使ってしまう場合もあると思いますが、結局、悪い意味の「愚痴」の場合には、聞かされて良い気持ちはしません。そして、その愚痴は、その時々で事象や表現は変われども、根底にある本質は何も変わらないまま、永遠と続いていくケースが多いです。

 

逆に、良い意味の「愚痴」の場合には、聞くことに関して、当然楽しい気持ちにはなりませんが、聞いてあげたい、という気持ちにさせられます。また、何回か話すうちに、事態は進展していますし、本質的に同様な愚痴が続くことはありません。

 

そういうわけで、愚痴を言い続けていて、その愚痴の原因は自分以外のところにあって、その原因のレベル感が、毎度ほぼ同じようなものであり、慰めてもらったり自分が正しいと言ってほしい、という気持ちが強く、一切自分は変わる必要がない、と思っている場合には、愚痴を聞かされている相手はほとほと迷惑をしている、ということだけは、認識しておいた方がよいかもしれません。。。