無意識が心地いい状態にしてあげる
私たちは、いつも自分にとって心地のいいことをしようと考えています。
自分にとってあまり心地がよくないことが多い中で、少しでも心地いいことをしたい、感じたい、心地がいいものが欲しいと望んでいます。
自分へのご褒美、というようなものもそのひとつだと思いますが、例えば、お酒の場合、「自分にとって心地い、気分がいい」と思って飲んでいると思いますが、自分の体や健康のためには、必ずしも心地いい状態にはなっていない可能性があります。
飲んでしまった後、うたた寝すれば風邪をひいてしまうこともありますし、お酒のせいで眠りが浅くなる可能性もありますし、二日酔いで翌日頭痛がするかもしれませんし、酔った勢いで憂さ晴らしに、誰かや何かを傷つけてしまうこともあるかもしれません。
本人にとっては心地がいいと思っているものが、本質的には心地がいいものではない可能性があるわけです。
この時、「自分が心地いい」ではなく、「無意識(ウニヒピリ)が心地いい」ことをしているか、という観点で見つめてみる必要があります。
お酒で言えば、簡単に言ったら、やはり「無意識(ウニヒピリ)=体」と考えて、体のため、すなわち、健康のために本当になっているのか、と考えると、特にお酒に弱い人は、一瞬の気分の高揚があったとしても、飲まない方が、本質的には心地いいのです。
このように、私たちは、長い間、自分自身で自分の気持ちや気分を決めてしまい、無意識(ウニヒピリ)が本当に心地よく快適な状態でいるのか、というところに、ほとんど気を向けることができていません。
そのため、無意識(ウニヒピリ)が本当は望んでいないような、短絡的かつ享楽的な心地よさをつい望んでしまうのです。
そして、それを続けると、さらに、無意識(ウニヒピリ)が本当に感じている心地よさと、表面上の私たちが感じる心地よさに乖離が出てきてしまうのです。
先ほどの例で言うなら、もし、お酒を飲まないことが無意識(ウニヒピリ)の心地よさの場合、今の自分の心地よさとは全く違うので、無意識(ウニヒピリ)が本当に求めている心地よさに応えてあげるのは嫌かもしれません。
私たちには、最終的に感じる心地良さとか心地悪さというものがあります。
最初に心地よさを求めた結果が、最終的には心地悪い場合には、無意識(ウニヒピリ)が本質的に感じているものは心地が悪いものです。
この感覚を大切にして、自分にとって、本当に感じている心地よさと心地悪さは何なのかを、いつもチェックして、徐々に、本当に感じている心地よさを求め、本当に感じている心地悪さからは遠ざかるようにしていった方がよいと思います。
そのようにしていると、徐々に無意識(ウニヒピリ)との感覚が近づいてくると思います。