人生100年でゆっくりじっくり成長していこう!

「人生100年時代」を「急がなくてもゆっくりじっくりと成長できる時代」、「いつから始めても遅くない、いつからでも始められる時代」、「より多くの楽しく豊かなことを経験できる時代」と捉えて日々過ごしていける方法をみなさんと共有していきたいと思います。

平等と差別 再び

前回、名古屋城天守閣復元にあたり、エレベータ設置がないことに意見をした車いす利用者の方に対して、差別的な発言がされたことについての話題について書きました。

 

 

ここで、問題となった発言として、「生まれながらにして不平等があって平等なんですよ」という言葉がありました。

 

これを障碍者の方に投げかけるのには、ちょっとキツイところがあると思いますが、「不平等があって平等」とは思いませんが、「不平等であることは当たり前」ということであれば、これは歴然たる事実だと思っています。

 

生まれた時に、お金持ちの家に生まれる子もいれば、それほど裕福でない家に生まれる子もいるし、その後も、友達から平等に仲良くしてもらうこともなければ、自分でも平等に仲良くすることなんてできない、そして、異性が自分のことも他の人と平等に好きになってくれることもなければ、自分も複数の異性を平等に好きになることは不可能なわけです。

 

言ってみれば日常生活ですべてを平等に扱うことは不可能ですし、何らかしらの差別を行いながら生きているわけです。

 

そして、平等ではない、ひどい場合には差別がある、と感じ、そこは平等であった方が当たり前ではないか、と思った場合には平等である権利を主張することになります。

 

しかし、この世の中は平等ではなく、ひどい場合には差別があるのは当たり前、と考え、特に、その不平等や差別に我慢している人からすると、平等である権利を主張されると自分が我慢しているだけに怒りを感じてしまう場合があるのです。

 

そして、今の世の中ですが、平等である権利を主張する団体などが、純粋な思いだけでそのような主張をしているだけではなく、様々な利権確保や活動家の飯のタネの温床になっている場合もあり、その場合には、少しでも不平等や差別の匂いが感じ取れるところで、声高らかに平等である権利を主張するため、それに対して嫌気も出て、つい怒ってしまう場合もあるのです。

 

そのため、記事だけでは双方の言い分の良し悪し等は判断しがたいところがあります。

ですが、「平等でないことが当たり前」の世界では、何かを目的としたときに、その目的にあわない対象には、どうしても我慢してもらわなければいけないことは当然起こります。

 

であれば、今回、なぜエレベータ設置をしないのか、よりも、その前段の、名古屋城天守閣復元に際して、より当時をリアルに再現する理由や意義を理解してもらう必要があるのかなと思います。

 

また、同時に、バリアフリーを実現できない、バリアフリーよりも優先する理由も明らかにしていった方がよいと思います。

 

逆に、バリアフリー化することに対する追加コストを入場料や税負担などでどれくらいでペイできるのか、それでもバリアフリー化する必要があるのかも検討する必要があるのかなと思います。

 

そう考えていくと、どちらも感情的に「差別的な発言はひどい」とか「平等をはき違えてわがままだ」とか言っている場合ではないかもしれません。

 

この世は平等でないことは前提として、今、なぜバリアフリー化が必要なのか、もしくは、不要なのかを、ある程度ロジカルにお互い説得する必要があるのかもしれません。