平等と差別は「当たり前」と考えることの違いから発生する
名古屋城の天守閣復元にあたり、エレベータ設置がないことに意見をした車いす利用者の方に対して、差別的な発言されたことについて話題になっています。
差別的な発言をしたと言われている方が主張されていることは、天守閣の復元というのは昔ながらの状態での復元なので、昔ながらということはエレベータなどの最新設備がなかった時代のものの復元なのだから、それを無理やりバリアフリーという名のもとにわがままを言わないで欲しい、という論調です。
私は映像でも見たのですが、その差別的な発言をしたという方の言い方が、車いす利用者の方に対して非常に攻撃的であったため、その点が非常にまずかったと思うのですが、お互いに、お互いの立場を尊重しながら自論を穏やかに展開する限りは、この方の理屈も間違っているわけではないのです。
公共施設や多数の方が利用されるところにはバリアフリーを意識するのは、現在では「当たり前」となっていますが、この名古屋城の天守閣復元に対して最も重要なテーマが昔と同じ状態により近づけることを最大の目的としているとしたら、名古屋城が建立された頃のものを忠実に再現していくことならば、エレベータがないことが「当たり前」なのです。
この自分が考えている「当たり前」のレベルを超過するものを自分以外の人が要求してきた時、「わがまま」「自分勝手」と判断してしまう原因となっています。
そして、この「当たり前」のレベルが人、地域、国ごとに違うため、「当たり前」のレベルに達していない時は「平等」を主張してしまうし、「当たり前」のレベルを超えたことを主張してくる人には「当たり前のレベルでいろ!」と差別的な主張をしてしまうわけです。
この「当たり前」のレベル感の食い違いが、どうしても気になってしまう、とか、それ以上に、嫌悪感さえ覚えるとか理解できない、という場合には、お互いに距離を取るしかないですが、逆に、「当たり前」のレベル感が違っても、それに賛同できるわけではないものの、その人がそのように考えている、ということを理解し、受け入れられるのであれば、「平等」や「差別」などのワードが出る争いまで至らないのです。
この、その人が持つ「当たり前」の世界は、7つの習慣でも出てくる「パラダイム」にも似たものがあります。相手のパラダイムを理解し、相手のパラダイムが自分のパラダイムと果たして対立するものなのかを考えていくことは本当に重要なことです。
今回の一件も、どちらの言い分にも、単なる「わがまま」でもなく、差別でもない背景があったようです。それを咀嚼しないまま、感情的になって発した言葉が不適切であった、という感じだと思っています。
私も、すぐ感情的になる方ですが、本当に感情的になるのは、最後の最後の本当に許せないと思う時でも遅すぎることはないのです。
自分の当たり前を人に押し付けない、人の当たり前も尊重する、これだけ思っているだけで、人間関係は随分スムーズになっていくのです。