人生100年でゆっくりじっくり成長していこう!

「人生100年時代」を「急がなくてもゆっくりじっくりと成長できる時代」、「いつから始めても遅くない、いつからでも始められる時代」、「より多くの楽しく豊かなことを経験できる時代」と捉えて日々過ごしていける方法をみなさんと共有していきたいと思います。

田舎と長男 再び

「田舎」や「長男」といった文化が、それに関わっている人を、かなり厳しく、つらい立場に追いやっている可能性がある、ということを先日書きました。

 

 

その時、「田舎」というものが持っている象徴的な特徴として「世襲を前提とした閉鎖的空間」と書きましたが、その時、何か大事なものを忘れているな、という感覚があったのですが、長野で起こった事件とあまり関係がなかったので、思い出せずにいました。

 

そして、その後、以下の記事を見た時に、思い出した、田舎の最も象徴的な特徴は「同調圧力」です。

 

 

この田舎が持つ特徴である「世襲」、「閉鎖的空間」、「同調圧力」は良い訳でも悪い訳でもないので、好きならば田舎の生活を楽しめばいいのです。

 

上記の池田町の例も、かなり田舎の嫌な側面として捉えられていることが多いと思うのですが、池田町という集団が、住んでいる人たちにとって、この上なく心地いい空間であるならば、その池田町が持つ雰囲気や文化などに「同調」できない人は来なくていい、という覚悟を持って宣言していることだと思いますので、それを守って住みたい人は住めばいいし、住みたくない人は住まなければいいのです。

 

仲良しグループの中に、いきなり入ってきて、グループメンバーの意向などお構いなしに、自分のやりたいことだけやっていたら、嫌われ無視されるのと同じことです。

 

そして、この「仲良しグループ感覚」というのが、良くも悪くも「田舎的」ではあるので、これをどう評価するかが問題です。

 

池田町のことをとても閉鎖的で同調圧力が強くて嫌だと思った人も、自分が仲良しグループの一員になっていて、変な人が入ってくるのは嫌とか、グループメンバーが自分が意図しない行動を取ったり、自分よりも他のグループの人と仲良くしたりするのは嫌、と考えているとしたら、発想的には「田舎的」であり、池田町とそれほど変わりません。

 

私が「都会的」と思う人との付き合い方は、基本的には、個人が人に迷惑や嫌な思いをさせないような程よい距離感を取り、自分の好きなことを自由にやり、その上で、共感できる人がいたら、その人とも程よい距離感を取りながら、その人の自由も尊重しつつ、楽しく接していく、といった感じかなと思っています。

 

言い方を変えるなら、自分が好きなことをやるけど、人に迷惑をかけるわけではないから、放っておいて欲しい、でも、あなたもそういうスタンスであるなら、それを認めるし、気が合えば交流するけど、気が合わなければ交流しないし、誰とも気が合わないなら孤独でも仕方がない、という感じです。

 

「田舎的」な感覚、「都会的」な感覚、どちらが好みかは人それぞれだと思いますが、私は、田舎的な感覚は息がつまりそうで苦手です。

 

特に、「田舎的」なグループや集団が醸し出す同調圧力が大嫌いです。これは、仮に都会であっても、上記のような「田舎臭」がプンプンする人やグループや集団は多々あるので、可能な限り、距離を取るようにしています。

 

まあ、広義で言うならば、信者に何かを要求するような宗教、弟子に何かを強要するような伝統的なもの、過大な労力を要求されるPTA等々も「田舎的」なものでしょう。

 

結局、「やる自由」「やらない自由」「関わる自由」「関わらない自由」という、相反する自由が認められていないこと、これが「田舎的」なものだと思います。

 

そして、その自由が許されていない空間を好んでしまう、もしくは、選択してしまう理由は何なのかは、一度、自分自身に問いかけていった方が良いと思います。