嫌なプライドでも、あること自体が素晴らしい
自分はもっとできる、とか、自分はこんなところでくすぶっている人間ではないとか、自分が不遇な時に感じるプライドのようなものがあります。
プライドを捨てて、素直にゼロからやり直せば、もっともっとうまく軽やかに人生を生きていけることができるのに、プライドが邪魔して、真摯に物事に取り組めなかったり、必要な努力ができなかったりします。
そして、そのような感じで鬱積した気持ちを発散するために、SNS等で有名人に誹謗中傷を浴びせたりしてしまうなど、良くない方向にエネルギーを傾けてしまう人もいます。
ただ、この「プライド」特に嫌な方向に進んでいく「プライド」ですが、一応、理想と現実のギャップから生じている「エネルギー」でもあるのです。
たとえば、100点取らないと気が済まない人が50点の場合と、50点以下でも何も気にならない人の50点の場合では、後者は特に気持ちのエネルギーが発生しないものの、前者は屈辱というか悔しい、というエネルギーが発生します。
このエネルギーは行先をどこかに求めるわけですが、考えられるだけでも、
①次は100点取れるようにと努力をする原動力
②100点取るのはあきらめて、別の好成績を取れるものを探し取り組む
③100点取るのはあきらめて、その悔しさを誰か、もしくは、何かにぶつける
④100点取るのはあきらめて、落ち込んで何もしない。忘れる。
の4パターンぐらいあるかなと思います。
①②は生産的なエネルギーの向け方、③は非生産的なエネルギーの向け方で一時的なエネルギーの発散にはなっているかもしれないけど、下手すると逆流してくるエネルギーの向け方、そして、④はエネルギーを滞留させているやり方です。④については、周囲には迷惑をかけることはないですが、いずれ、何らかの形でエネルギーを発散させないと、いつか悪い形で蓄積されたエネルギーが爆発することになります。
ただ、ここで最も大事なことは、どちらにおいても、50点以下でも何も気にならない人には存在しえなかった「エネルギー」というものが存在しているということです。
そして、そのエネルギーがせっかく存在しているのだから、あまりよくないエネルギーの向け方である③④ではなくて、よいエネルギーの向け方である①②の方向にシフトしていった方が得だ、ということです。
確かに、あまりよくないエネルギーの向け方である③④になるくらいだったら、エネルギーなんてない方がいいんじゃないかという考え方もあります。
でも、そもそもエネルギーの源がない人が、エネルギーを生み出すことは難しいというより不可能だと思っています。
例えば、私が、オリンピックで100m走に出場したい、という情熱とも言えるエネルギーを、どう努力しても持ち得ることは絶対に不可能です。
だからこそ、嫌なプライドでも、自尊心でも何でもいいのですが、エネルギーを持っていること自体は決して悪いことではなく、尊いことなのです。
そのエネルギーをいかにより良い方向に向けることができるか、そして、将来的な自分や自分以外の人や環境にとって、より良いと思われる方向に転換できるか、そこが勝負で、この良い方向へ向かうための原動力となり得るのならば、自分のことが嫌いになってしまうようなくだらないプライドだったとしても、それが存在してくれること自体はとてもありがたいことなのです。