許されるように生きろ
石原さとみ主演の「アンナチュラル」というドラマがありますが、その第7話で、いじめられていた高校生をかばった友人に、いじめの矛先が変わり、その友人が自殺をしてしまう、というお話があります。
※上記は実はネタバレ・・・。それが判明するまでのストーリー展開がスリリングなのですが、まあ、随分前のドラマなので良しとしましょう・・・。
その自殺をさせてしまった友人の死を見て、自分のせいでいじめられたのに、その友人だけ死なせてしまっていいのか、自分はこのまま生きていて許されるのか、と、その自殺をしてしまった友人の後を追って高校生は自殺をしようとします。
その時に、石原さとみの同僚役で、法医学の知識は人並みならぬものがありながらも傍若無人にふるまう同僚の中堂(井浦新)が、自殺を止めるために発した言葉がとても深いのです。
それが、
「許されるように生きろ」
です。
その自殺をさせてしまった友人の高校生を追って自殺をするのではなく、その死んでしまった友人が、今後も許してくれるように精いっぱい生き抜け、と言っているのです。
私たちは、生きている中で、人を傷つけたり、人に嫌な思いをさせたり、時に、意地悪なことをしたり、不親切であったりしてしまうことがあります。
人生を振り返って、そのようなことを思い出すと、反省するだけでは足りなくて、自分の馬鹿さ加減や人間としての未熟さに押しつぶされてしまうくらい苦しくなることもあるかもしれません。
そのように思った時こそ、その迷惑をかけたり、嫌な思いをさせてしまった人に「許されるような生き方をする」ことが大事だと思います。
その迷惑をかけたり、嫌な思いをさせてしまった人に、直接アプローチして、謝ったり償うことができることもあるかもしれませんが、遠くに離れ、時間も経っていたりするなどの理由で、それが難しい場合もありますし、こちらが申し訳ないとか許されたいと思っているだけで、相手に直接的にそれを言うのがふさわしくない場合もあります。
その相手も、既にしっかりと自分の人生を歩んでいるケースがほとんどなので、その自分が馬鹿で未熟で相手にしてしまったことに対する後ろめたい思いを、わざわざ相手に伝える必要もないケースがそれで、そんな場合にはわざわざ相手に伝える必要はないのです。
ただ、相手が今幸せならそれでいい、で終わらせないで、自分が過去にやってしまったことで引け目のあることがある場合には、「許されるように生きる」のが大事かなと思います。
ドラマでは、自殺してしまった友人に許されるように、という意味でした。
過去にあまりにひどいことをしてしまった人がいる場合には、その人に許されるように、と思うのがよいかもしれませんが、そこまでひどくない場合には、というよりも、ほとんどのケースで、「誰に」許されるように生きるかというと「自分自身に」許されるように生きるのだと思っています。
今、自分が過去にやってしまったことで引け目のある、ということは、そのやってしまったことで迷惑をかけた人が許してないかはわかりませんが、確実に、自分自身で自分を許せていないのです。
よく自己肯定感の本などで、「自分を許してあげましょう」と言いますが、ただ自分を許すというのは難しいと思います。
自己犠牲とか、そんな厳しいものではなくていいので、自分で自分を許せるように、暖かく親切な行いを増やしていく、自分で自分を許せるように、人を励まし元気づける行いを増やしていく、というような感じでやっていけばよいと思います。
「陰徳を積む」という言い方をしますが、人生では「陰徳を積み増している」人もいれば、「陰徳で精算している」人もいると思っています。要は、借金がない人は貯金ができるけど、借金がある人は貯金の前に返済が必要なわけです。
「許されるように生きろ」は「陰徳で精算し続けろ」という意味でもあると思います。
実際には、人生には、プラスマイナス様々なことがあって、陰徳で精算し続けないといけない人は少ないと思いますが、「陰徳をすることで過去の過ちや愚行を少しずつ洗い流そう」と考えていった方が、「陰徳」的な行動をとるモチベーションが高くなると思います。
「許される」ことを目指していくことは、消極的なことではなく、前向きで、そして、自分にも自分の周囲にも貢献していく原動力なのです。